【東京レトロ洋館巡り】明治の丸の内にあったロンドン赤煉瓦街!日本初のオフィスビル・三菱一号館の歴史が凄い!
久しぶりのレトロ洋館巡り!
東京駅から徒歩5分で出会える赤煉瓦造りの素敵な美術館 ♪
今回は、丸の内にある『三菱一号館美術館』についてご紹介します!
三菱一号館ってどんな建物なの?
『三菱一号館』が建てられたのは、明治27年(1894年)のこと。
初めから美術館として建築されたわけではありません。
実は、、この素敵な赤煉瓦建築、当時はオフィスビルだったのです🏢。
それも日本で初めてのオフィスビルでした!!
日本初のオフィスビル・三菱一号館
当時は三菱の銀行が入っていたほか、賃貸オフィスとして貸し出されていました。
自社ビル&賃貸という使い方は、現代に通じますね。
まさにオフィスビルの原点!
職場がこんな素敵な建物なら毎日うきうき働けそうですね ♪。
設計したのは、開国して間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドル。
鹿鳴館の設計などで有名な建築家さんです。
ところで一号館と名付けられているということは、二号館、三号館もあるの❓❓という素朴な疑問がわきますよね。
実は・・、あったんです!
丸の内がロンドンだった時代『一丁倫敦』
三菱一号館を皮切りに、1894年から1914年にかけて赤煉瓦造の三菱館が100メートル以上建ち並び、その様子は「まるでロンドンのよう」ということで『一丁倫敦』と称されていました。
その時代の丸の内、見たかったなあ~。
今は高層ビルに囲まれていますが、この辺りが一帯、赤煉瓦だったんですね~。
どうして日本にロンドンの街並みが出現することになったのでしょうか❓❓
そもそもの始まりは、政府から三菱財閥に丸の内の土地が払い下げられたことにありました。
丸の内といえば、江戸城🏯や大名屋敷があったあたりですが、明治時代には陸軍用地として使われており、約10万坪の土地が三菱に売却されたのです。
当時はひたすらに広い草原で、一帯は『三菱ケ原』と呼ばれていたとか🍀🍀。
日本初のビジネス街を作ろう計画!
「この地に日本の一大ビジネス街を作ろう!」と決意した三菱の2代目・岩崎弥之助。
彼が白羽の矢を立てたのが、建築家ジョサイア・コンドルでした。
三菱の顧問に迎えられ、首都にふさわしい街づくりを任されたコンドル氏は、ロンドンのロンバード街をイメージし、高さを揃えた3階建ての赤煉瓦の建物が建ち並ぶ景観を作りました。
こうして『一丁倫敦』と呼ばれるロンドン in 丸の内な街並みができたのです。
大正3年(1914年)には東京駅、大正12年(1923年)には丸ビルが落成し、丸の内は日本最大のビジネス街として急速に発展していきました。
日本初のビジネス街はこうして誕生したのでした!
それにしても、日本の中心といえる丸の内ビジネス街をつくったのは、国ではなく企業だったというのは驚きですね😲😲。
国も頑張れ~~って気もしますが💦。
当時の三菱財閥がやたらと力を持っていたのかもしれませんけどね💪。
ちなみに、現代でも丸の内は三菱関連の企業の本社が多いため『三菱村』と呼ばれています。
ドラマ・天皇の料理番で見られる一丁倫敦の街並み
ところで、TBSで放送されていたドラマ「天皇の料理番」をご覧になっていた方も多いのではないでしょうか👨🍳。
大正・昭和時代の宮内省厨司長を務めた秋山徳蔵氏の人生を描いたこの作品には、この『一丁倫敦』の赤煉瓦街がたびたび登場します。
何をやっても長続きしなかった主人公が、一口のカツレツがきっかけで、料理に目覚め、初めて東京に行ったのが明治37年、三菱六号館、七号館ができた頃のこと。
ドラマの中では、そこから変化していく街並みを見ることができます。
『一丁倫敦』を再現する大掛かりなセットを作り、ドラマの進行に合わせて建設状況も変えていったそうです。
TBSテレビ60周年記念の特別企画ドラマだったためか、気合を感じますね!
当時の街並みを感じたい方は、ぜひご覧になってください。
ドラマ自体も面白いのでおすすめですよ。
ただ、洋食がめっちゃ食べたくなります🍛🍝。腹ペコ注意!!
姿を消しゆく赤煉瓦街
『一丁倫敦』として時代を築いた赤煉瓦街。
しかし、耐震性に難があり、関東大震災で甚大な被害を受け、どんどん合理的なアメリカ式オフィスビルに建て替えられていくことになります。
地震の多い日本には不向きだったか Σ( ̄ロ ̄lll)。
第二次世界大戦でも多くが倒壊し、戦後の高度成長期に始まった三菱地所による再開発計画で、赤煉瓦街は姿を消していくのでした (T_T)。。
ドラマのような展開!三菱一号館の解体事件簿
ついに三菱一号館も、取り壊される時がやってきました (>_<)。
昭和43年(1968年)3月に老朽化のため、解体工事が行われました。
しかし、この取り壊しにあたって、ひと波乱ありました!
実は、前年の9月に文部省から重要文化財指定の申し入れがあったのです。
しかし三菱側は承諾しませんでした。
そこで、文部省は<文化財保護法の強制指定の適応>という “持ち主が承諾しなくても強制的に文化財に指定できる最後の手段” を検討していたところ、ある日突然、三菱から一方的に解体工事をする旨が通告されます Σ( ̄ロ ̄lll)。
その翌日には足場が組まれ、さらに翌日には解体工事を強行、、。
と、こんな感じで三菱一号館は、抜き打ち的に解体されたのでした。
なんだかドラマのような展開!!
40年あまりの時を経て同じ地によみがえった三菱一号館
そんなキナ臭い解体劇から40年あまり。
19世紀末に日本の近代化を象徴した三菱一号館は、コンドルの原設計をもとに、今度は美術館となって甦りました。
復元とはいえ、当時の面影を感じられるのは、ありがたいことです(*^_^*)。
ちなみに、地震問題については、免震構造を施したそうです。
三菱一号館の設計は、 全館にクイーン・アン様式が用いられているのが特徴です。
クイーン・アン様式は、18世紀前期アン女王の時代にイギリスで生まれ、その後、植民地時代のアメリカで広く発展していった建築様式です。
外観は、左右非対称で不規則なデザインが用いられます。
特徴として、寄棟屋根が多い、屋根に八角形の塔をのせたり、玄関からつながる長いベランダがある、台形に張り出した出窓が多用される、などが挙げられます。
ちょうど19世紀後半の英国で流行していたそうなので、コンドル氏がこの様式で設計したのかもしれませんね。
かつては近代化の象徴だった建物が、今はクラシックな趣で訪れる人々を癒してくれています。